Read me 激情

しがないゲーオタ女子の真・闇ブログ

続・誰かの人生を体験するゲーム、あるいは誰かのゲームを体験する人生

この三連休に、7月に続いて再びディズニーランドへ行った話でも書こうと思ったが、ある記事を読んで非常に感銘を受けたので、急遽後回しにして、こっちの話を書こうと思う。ブックマークも付けたが、感想を書ききれないのでブログで。

※今回はゲーム話はあまりなく、極めて自分語り気味のエントリなので、興味がなければ左へ曲がれ、あるいはタブ閉じボタンへどうぞ。

jp.ign.com

IGNの「電遊奇譚」、連載当初からのファンで、ゲームにまつわるフィクションともノンフィクションともつかない卓越した文章を毎回楽しみに読んでいるのだが、今回は3回に渡ってゲームと人生について語られていて、特に素晴らしかった。そして読んでいて、ふたつほど思い出した、ごく個人的な人生の出来事があった。

 

ひとつめ、著者には流産で亡くなったというゼロ歳の姉がいた話題で思い出したのが、自分には3歳年上の姉がいるのだが、実はもうひとり、2歳年上の姉がいた……いた、というより、実質自分が2歳上の姉に、3歳上の姉の一つ下の妹となった、というほうが正しいかもしれない。

もう一人の姉は、母が妊娠8ヶ月頃、原因不明で流産した。

実家の仏壇には姉の水子位牌があり、幼少時からもう一人の姉がいることは知っていたが、先日のある日、実家へ行くと、小さなコップに汲まれた牛乳が仏壇に供えられ、線香が灯っていた。母に「なぜ仏壇に牛乳があるの?」と尋ねたら、今日がもう一人の姉の命日だから、ミルクを供えたのだと言った。毎年お供えしているそうだが、仏壇にミルクの供物を見かけたのは初めてで、今まで気づかなかったのかもしれない。

母は昨晩、命日の前夜、ふともう一人の姉のことを思い出し、なぜか涙があふれて止まらなかったと話した。当時はとてもショックだったが、2年後にお前が産まれてくれた。お前は姉が生きていたら産まれなかった、お前は姉のぶんの人生を生きているのだ、と言われた。

自分が、この世に生まれなかったもう一人の姉の代わりだと、姉が生まれていればお前はこの世にいなかった、というのは、昔から母に何度も語られてきた言葉だが、仏壇のミルクを眺めていたら、もしもう一人の姉が生きていたら……if人生について、思いを馳せたのと同時に、だとしたら自分の人生は、いったい誰のものなのだろう? 自分は何者なのだ? と、一瞬軽いアイデンティティークライシスに陥った。敬愛するニック・ケイヴのアルバム「The Firstborn Is Dead」で知った、エルヴィス・プレスリーは双子で生まれたが最初に生まれた兄は死産だったというエピソードはわりと有名だが、生まれなかったもう一人のプレスリーの人生についても思い出したりした。

 

少し趣旨と脱線するが、もうひとつは、専門学校卒業後の進路の際、自分がこの仕事(オタク系DTPデザイナー)を目指すきっかけになった、幼少期に読んだゲーム攻略本を制作した編集プロダクションの求人票を発見し、迷わず応募して、ついに内定したことを同じクラスの女友達に報告したら、実は友人たちのひとりもそこへ応募したが、書類選考の段階で落ちてしまったと話した。自分とは正反対の寡黙な性格の彼女は、どうやらゲームや漫画が好きで、学校内では自分のような隠れオタクだったが、だからといって個々のオタク趣味を共有しあうことは特になく、同じクラス内のグループ友人(一人だけ東京出身がいたが、なぜか全員同じ千葉県在住ってつながりだった)のひとりといった感じだった。卒業後、自分は編プロへ、彼女は地元の小さな事務所で版下の仕事へ就き、今でも数年に一度、女友達との会合で顔を合わせる付き合いをしている。

あれから25年以上経ったが、時折去来する仕事の岐路で、希望する編プロに入社できなかった彼女のことがふとよぎり、もしも逆に彼女が編プロに入社し、自分が落ちていたら、自分と彼女はどんな人生を送っていたのだろう……下衆な言い方をすると、自分は編プロの狭き門を、彼女を踏み台にしてくぐり、進路を、夢や目標を手に入れたのだから、絶対に後悔のないよう慎重に、かつ大胆に選択せねばならぬと思ってやってきた。

 

本題に戻ると、自分自身や誰かの個人的な物語=人生は、どこまでも限りなく面白く、興味が尽きないのだが、それらをゲームで擬似体験できるのを意識しはじめたのは、ここ最近になってからのような気がする。

macgirl360.hatenablog.com

以前も書いたが、ゲームをプレイしはじめた瞬間、プレイヤーはゲームの中に入り、主人公と同一化する。自分の場合、出生前にもう一人の姉の死という別の人生フラグがあった、あるいはもう一人の姉のライフをもらいエクステンド生誕した……といった具合だろうか。そんな想像をしていたら、やはり人生とは生まれる前から、後からもゲームなのだな、と感じた。コラムでは、ゲーム制作者たちの声をゲームを通じて体験することで、ゲーム制作者の作家性やゲームが新しい時代の芸術となるのを訴えていて、自分もゲーム制作者とは一体何だろうと常々考えているのだが、大小でははかりきれない世界の、人生の創造者なのだと思っている。一方的に没入するのみの小説や映画とは異なり、あるひとつの世界へ誘い、自らの手により行動する人生を体験できるのだ。

時にはジャンプしたら底なしの谷底へ落ちたり敵にコテンパンに打ちのめされたり、マシンに乗ったらクラッシュしたり敵球に当たって無様に死んだり、選択を間違えて可愛いヒロインにはフラれるかもしれない。けれども、ジャンプで超えられたり敵を倒せたり可愛いヒロインに好かれたりもする……その先の達成感が、必ず待っている。これってちょっとした人生ではないか?

「人生はゲーム」も「ゲームは人生」も大げさかもしれないが、リアルな人生にも選択肢やifなどの物語があり、バーチャルなゲームにも似たようなコンテンツ、物語が存在する。ゲーム制作者がゲームにどこまで自己投影をして制作しているかは分からないが、自分もゲーム制作者に対し、物語やルールを創造し、あなたのパーソナルな世界を見せてくれて、本当にありがとう、と敬意を表したいので、自分も今回、パーソナルな話をしてみた。考えるきっかけを与えてくれた「電遊奇譚」にも、感謝したい。

 

めちゃくちゃでとりとめがないけど、ひとまずそんな具合で。次こそはディズニーエントリを書くぞー。