Read me 激情

しがないゲーオタ女子の真・闇ブログ

続・インターネットで死ぬこと、現実で生きること ~さよならの予習~

先週末、待ちに待った『ポケモン スカーレット/バイオレット』がついに発売されて、ポケセンで予約したダブルパックが届き、さあ始めるぞ~と思った途端、家族たちが風邪でダウンしてしまい、看病に追われてゲームどころでなくなってしまった。療養しながら家族らはスカーレットとバイオレットをそれぞれ進めているのを、まだスカーレットのキャラメイク~チュートリアルパートが途中までしか進んでいない自分は、ネタバレ回避のため流し見している。かくいう自分も先週からずっと風邪を引きずっていて、看病疲れも重なりなかなか治らない。早くポケモンの続きがやりたい……。

と、今月はポケモン新作のことを書きまくりたかったのだが、ちょっと思うところがあり、急遽ゲーム以外の話を書くことにした。

 

ここ数日、イーロン・マスク運営のゴタゴタでTwitterが終了するかもしれないから、次の移転先SNSを探そうという動きが、インターネット中で起きている。運営の動向に翻弄され慌てふためくネット民の言動を見ていたら、当ブログを立ち上げる以前に書いたエントリをふと思い出し、久々に読み返した。

gameside.hatenablog.com

勝手に立ち上げた非公式闇ブログで、誰も読んでいないだろうと自由に書いていたら、意外と反響があったっぽい。アカウントの新管理人がパス変えちゃってもうログインできないので更新終了しているが、公式サイトやブログが消滅してもなぜかいまだに消えてない(非公式だから?)。

 

これを書いた9年前と、現在のインターネット・SNS事情では、ネットとSNSが社会的インフラであることには変わりないが、利用者の状況がだいぶ異なっている。莫大に膨れ上がった自意識集合体が、政治言論が、広告が、面白バズりネタが、特に選んでも頼んでもいないのに、ほぼ強制的かつ一方的に押し寄せてくる。自分のSNSアカウントは主に非公開で、フォロー数を制限していても、あらゆる情報を毎日湯水のように浴びているのは、精神衛生上よろしくないなーと思いつつも、じめっと薄暗い庭の石をひっくり返して大量発生しているダンゴムシを見つけたくなるような、カロリーと添加物たっぷりの悪いインターネットを摂取したいときだってある。

 

主要SNSが崩壊しつつあるこの機会に改めて、みんなにとっての「インターネットの生と死」とは、なんだろう……? と問いたくなった。サービスが終了したりアカウントが消えてしまうのがインターネットの死で、何もかもが終わってしまうのか。あるいは別のサービスへ《転生》し、再びインターネットで生き永らえ続けるのか。

コロナ禍によって、現実で生きることがインターネットで生きるよりもつらいものになってしまったのは、はるかに予想外だった。リモートで繋がれるとはいえ、人との絆は物理的な移動が伴うものだと実感した。ほんの少し前まで元気にしていた人があっさり、もしくはひっそりと亡くなってしまい、現実での死がより身近になった。

 

そしてエントリから9年経ち、自分自身へも改めて問いてみた。やっぱり答えは変わらず、たとえインターネットやSNSではオフラインでも、ゲームではオンラインでいたいと、今でも思っている。実際にそういうネット友人を見ていて、とても憧れるし、心から尊敬している。

ネットやSNSを長年続けているうちに、自分の人生はもはや、どこかの誰かしらの人生にも間接的に関わってしまっている。ただ、インターネットの死が訪れた時、関わりのあった誰かは、果たして自分のことを覚えてくれているだろうか。すべての人の記憶から完全に忘れ去られた時が、インターネットおよび現実での、真の死ではないだろうか。

ここ数年でブログやポッドキャストを始めたりなど、SNS以外での自分のネットの居場所=住所を増やしてみて、リアルな自宅やゲーム以外で帰れる場所があるのは、やっぱりいいなと思う。日々あった出来事や気持ちを、書けるときに書いたりトークしてログ=生きた証を残せるって、最高だ。自分のためだけに続けているから、SNSにおける毎日ウケ狙いで呼吸するように面白いことを言ったり、大喜利やバズりネタを投稿しなければならない義務感や使命感は、一切ない。

当ブログを置いてる「はてな」のサービスも、永遠に運営されるわけではないから、他のWebサービスも含めたログは、念のため取っておこうと考える、いい機会にもなった。

 

もしTwitterが本当に終了してしまったら……? という想像も、いずれ訪れるインターネット終活の一環、「さよならの予習」として、一度くらいはシミュレートしてみてもいいかもしれない。自分の場合は、そこでしか交流のない、ゆるいつながりの人々との別れとなるので寂しくはあるが、今までの交流に感謝をしつつ、ここは長年構築した人間関係をいったん整理する絶好のチャンスとして、新しい出会いに目を向けたいかも。自分はいつもここ(当ブログ)にいるので、何かあったら連絡ちょうだいといった具合。コメントは閉じてるけど、ブコメとかでコメントもらえたら読みます。個人的に旧くからの付き合いの人たちは、これからも適度な距離感でよろしく。

Twitterが無くなって惜しいといえばただひとつ、自分が気まぐれで作ったBotが消えてしまうことだけかも。Hさんの文章が唯一ネット上で読めるのは、もはやBotだけなので……。ネットが得意だったHさんは、ネットには何も残さずこの世から去ってしまい、亡くなったあともネットで会える残像のように存在しているbot。アカウント開設から12年も経っているのも大したものだが、無償サービス(一部有償プランあり)のTwittbotがいまだに残り続けているのもすごい。けどTwitterが無くなったら、一緒に無くなっちゃうんだろうなあ。まあ、その時はその時で。全文読みたい人は原本を手にとってくれるとありがたい。自分たちにとっての墓標は、この本だから。

ここ近年は以前のように、亡くなった人がオンライン上に浮上するような現象は見かけないが、先日SNSの過去投稿リマインドで、数年前に亡くなった知人がコメント欄にいるのを見かけて、知人のページへ行くと、毎年知人の誕生日に友人たちからお祝いコメントと、あの世へのメッセージが寄せられていた。競馬好きで名著も出していた知人がもしいま生きていたら、ウマ娘ブームをどのように受け止めていたのかな……と、しんみりしてしまった。2008年に死去した飯島愛のブログが、死後も遺族が2015年まで管理してファンの墓標となっていたように、1人にひとつはネット墓標が必要な時代になってきたのかもしれない。

もし自分がこの世から存在しなくなったら、ネットのアカウントは……? という想像は、だいぶ深くてすぐに答えが出ないし、今回のテーマとはちょっとズレるのでこの辺でとどめておく。けど、いつでもお別れができるような心の準備だけは、しておきたい。自分の居場所=ログは、いつだってここにあるし、もし心の片隅で思い出してくれたら、ぜひ遊びに来てほしいと思う。

 

40代も後半になってくると、どんなにブランクがあっても、以前と変わらず連絡がとれる関係のほうが、ちょうどよく感じたりする。たとえ縁が切れてたり事切れていても、便りのないのは良い便りだと信じたい。

 

とりとめもなく、湿っぽくなってしまったが、とりあえず、秋なんで。そんな感じで。

じゃ、ポケモンしてきまーす。